青熊ラジオ

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「心に残るごちそう」

 

 

 ごちそうといえば、最新版のミシュランガイド東京編はまだ読んでないけれど、どうなのだろう? 

モノカキになったばかりの頃、売れっ子の絵描きMさんに、銀座のおでんやに連れていってもらったことがある。でも、「このハンペン、一個千円はするぞ」といわれ、「ひえ、まじ…」とあまり味わって食べられなかった。やはり分相応が落ち着きますね。

 とはいえ、僕は食いしん坊なので、まずいものは食べたくない。そのためには、金は出さないが足は出す。

目の前にレストランがあってもイマイチそうと思えば、半径二キロぐらいならふつうに歩く。知らなくても探す。基本は直感である。おいしいところは、建物がぼろくても、たいてい清潔で、営業中でもまわりの空気が澄んでいるものだ。そしてカツオだったり、ホンドゥボーだったりのよい出汁の匂いがかすかにするのである。それは、たぶん日本でもヨーロッパでも同じなんじゃなかろうか。

 

 

もっとも、うちの奥さんは「あまり無理しない」というのが主義のヒトである。旅先でも、近所でも、おなかがすいたら、どこでもいいからすぐ近くの店に入ろうとする。でも、僕は食べ物だけは妥協できないので、

「ごちそうって、漢字で書くとご馳走だろ。歩いてうまいものを探すというのが語源なんだよ、きっと」などと言って、半ば疲れて涙目になりかけている奥さんを歩かせるのである。

あれは、まだ結婚前だったけれど、二人でブレーメンへ旅行に行ったことがあった。ブレーメンといえば、音楽隊のグリム童話で有名な町だけれど、じつは北ドイツ有数の港町である。土地の名物は生のニシン料理で、そのときちょうど「ニシン祭り」の真っ最中だった。そこらじゅうの店で「初ニシン到来」みたいなのぼりがパタパタひるがえっていた。でも、僕は、ローカル新聞の記事に紹介されていた下町の老舗レストランが気になって、そのときもやはり彼女をえんえん歩かせた。

 

 

で、ようやくみつけて店に入ったとき、「あ、ここはあたりかも」とすぐに思った。繁盛しているのだが、掃除はちゃんと行き届いていて魚臭いことは少しもない。そしてでてきた生ニシンを一口食べて、ぶっとんだ。ドイツで生のニシンといっても、たいていは酢づけか、オイルづけでヨーグルト系のソースがつく。でも、その店のは、刺身といってもいいぐらいで、ほんの少し塩でしめてあり、付けあわせが、おろしたてのホースラディシュ。ニシンは、新鮮で身がはじけるぐらいにぴんとしていたが、脂がのっているので口の中ですっと溶けていく。僕らは、しばし恍惚感の中に浸ってしまった。

おいしいものは、人を幸せにする。彼女の機嫌もなおり、よい気分のまま、次の日に近所の蚤の市に行って、アンティークの指輪を買ってあげた。それが僕から彼女への婚約指輪になった。

人生には、そういうきっかけが必要なのかもしれない。 

 

(このエッセイは、2009年に浜松百撰に掲載したも修正した)

 

©Jun NASUDA2009